「進藤、荷物、これで全部か?」 戸口のところで、ダンボールを抱えた和谷がそう言った。 「ああ。サンキュ。」 オレは和谷から荷物を受け取ると、部屋に運び入れる。6畳間はあっという間に、ダンボールで埋め尽くされた。 とりあえず、荷物のうち持って来れるものだけ全部持ってきたのだ。 「和谷くん、ごめんなさいね。荷物運び手伝ってもらっちゃって。どうもありがとう」 部屋で窓を拭いていたオレの母親が、和谷にお礼を言う。 オレはいいと断ったのだが、心配だからついていくと言ってついてきたのだ。 『15歳で一人暮らしをするなんて、お母さん許しません。』 初めはそう言って、頑として許してもらえなかったが「碁に集中したい」というオレの主張とじいちゃんや父さんの 口添えも合ってしぶしぶ、承知してくれたのだった。 一人暮らしができれば、伊角さんや和谷たちとも打ちやすくなるし、棋院からも近くなるのでいいことづくしだ。 ただ、家事全般がどうなるか自信が無い。 とりあえず、和谷と協力してやっていくしかないだろう。 「いえ、別に。むしろ、このアパートに進藤くんが引っ越してくれて助かるんでそのお礼です。」 和谷がそう答えると、オレの母親は嬉しそうに笑った。 「今日、引っ越しそばを作るから、よかったら和谷くんも食べてってね。」 「いいんですか?助かります。最近、ロクなもの食べてなかったから…」 「カップ麺とかインスタントばかりじゃ、体に良くないわよ。 ヒカル、あなたも料理とかどうするつもりなの?」 「料理?そんなもん、しなくても大丈夫だよ。ほとんど、外で食べるだろうし。」 母親の言葉にオレはうるさそうに答える。 「もう、それじゃ体に良くないでしょう。お金もかかるし。 お母さんが教えてあげるから、覚えなさい。」 「げぇー」 オレがうんざりしたように答えると、和谷が面白そうに笑った。 「オレん家ここから近いんで、いざとなったらオレん家に連れてきますよ。 オレの部屋も冷蔵庫とか、洗濯機無いからそのついでに家に帰っているんです。」 「ヒカルから聞いたわ。碁石と碁盤があればいいそうね。 棋士ってみんなそういうものなのかしら。」 はぁ、と母親が溜息をついた。 母親の作った引っ越しソバを食べた後、オレは自分の部屋で和谷と一局打つことにした。 先番はオレだ。 「お願いします。」そう言いあい、オレは「右上スミ小目」に石を置いた。 この最初の一手は佐為が好んだ手だ。 まぁ、初手としてはよく打たれる手なので好んでいるのは佐為だけではないが。 そういや、佐為が現代に蘇って初めて打った対局も、この一手から始まった。 懐かしい。あの時、小学生だった塔矢と打った。 あの時の塔矢は子ども子どもしていて可愛いかった気がする。 二回目にあった時の塔矢は、キバを剥き出しで可愛いなどという雰囲気ではなかった。 佐為の並々ならぬ才能を見抜いたのだろう。 中押しで負けた時の塔矢の、絶望感に満ちた顔。 オレもプロ試験で、負けることへの恐怖感・絶望感を嫌と言うほど味わった。 だからこそ、あの時の塔矢の気持ちが嫌というほどわかる。 もっとも。今の塔矢に負けるというイメージは似合わないし、塔矢自身も佐為に負けた絶望感など 高段者やタイトルホルダーたちとの対局で忘れてしまっているかもしれないが。 勝者か敗者。勝負の世界に身をおく以上、嫌が応でもそのどちらかに属さなければならない。 碁の世界は厳しい、と今更ながら思う。 だが、オレはこの道に入ったことを後悔していない。 佐為に導かれて碁を始め、塔矢の後を追うようにしてこの世界へ入った。 ワクワクすることもたくさんあるし、碁は楽しいと思う。 佐為が千年という長い年月の間、こよなく碁を愛し続けたようにオレもそうなりたいと思う。 「―ありません」 和谷のその言葉で、対局は終了した。 「お前、強くなってるな。オレも負けてらんねーぜ。」 「和谷、今度、角脇さんと当たるんだろ?頑張れよ。」 「ああ。お前も次、勝てば天元戦三次予選だな。」 和谷の言うとおりオレは天元戦二次予選の決勝まで来ていた。 これに勝てば、三次予選までコマを進められる。 さらにその三次予選を勝ち抜いていけばいよいよ本戦に突入できる。 相手は高段者の棋士だ。気を抜いていられない。 「塔矢は、名人戦も三次予選決勝まで来てるんだな。 本因坊だけでなく、名人戦までリーグ入りしちまうかもしれねーな。」 和谷がぼそっとそんなことをつぶやいた。 「ああ。アイツ、天元戦も三次予選出場だぜ。」 オレより、一足先に塔矢は七段の棋士との二次予選決勝に勝利し、三次予選出場を決めていた。 「クソー!!オレも勝ったり、負けたりを繰り返してちゃ、なかなか進めねーよ。頑張らねーと。」 「オレも。アイツに負けてらんねーよ。絶対、三次予選までいってやる。」 オレがそうつぶやいたと同時にトントンとドアのノックの音が聞こえた。 「はーい」 オレが少し、大きな声で叫ぶと「進藤ー。こっちに引っ越してきたんだってー?」 小宮と奈瀬の声がした。 おなじみの院生メンバーを和谷が呼んだらしい。 「カギ、空いてるから入れよ。」 オレがそう言ったあとに「お邪魔しまーす」という奈瀬の声が聞こえた。 「和谷もそうだけど、開けっ放しなんて、不用心ね。」 奈瀬の言葉に和谷が反論する。 「お前らが入りやすいようにしてやってんだろ。」 「あれ、伊角くんは?」 「伊角さんは今頃中国だよ。手合い課に頼んで休みをいれてもらったらしいんだ。 1週間後に帰ってくる」 「ふーん。和谷、残念だね。」 「そ、そりゃ、対局できなくて残念さ。」 「あ、進藤の部屋、ちゃんと冷蔵庫あるじゃん。しかも洗濯機もテレビも。」 遅れて入ってきた小宮が面白そうに部屋を見渡しながら、言った。 そう。いつでも家に帰れる距離の和谷と違って、オレの家からこのアパートは遠い。 なので、きちんと生活できるように最低限、必要なものは用意しておいたのだ。 そういった家具の代金は手合いなどの収入で賄えなかったのでじぃちゃんに頼んで少し負担してもらった。 招来のある棋士のためになるのなら、惜しくないのだそうだ。 「よーし。プロ試験だと思って望むからね!和谷、打ってよ」 「おう。」 パチッ、パチッと石を置く音がオレの部屋に響き始めた。 オレの天元戦の二次予選決勝は6月10日に行われた。相手は、八段のベテラン棋士だった。 オレが白。向こうが先番である。 序盤、黒にうまく打たれて焦る場面もあったが、中盤で何とか追いつくことができた。 そして終局。オレの2目半勝ちだった。 相手も二段のオレに負けるとは思っていなかったのだろう。 中盤あたりで勝敗が見えていたにもかかわらずに、中押しをすることは無かったので長引いた。 これで、三次予選への出場が決まった。 さて、今日はこれからどうしようか。アパートに帰って和谷に自慢でもしようか。 そう、思いながら棋院の入り口まで戻ろうとしたところで緒方さんにばったり会った。 相変わらず、上品そうな白のスーツに身をつつみ、大人の風格を漂わせている。 「進藤。今日、対局だったらしいな。勝ったのか?」 「うん。オレの2目半勝ち。これで三次予選にやっと進めるよ。」 「お前と、戦えることを楽しみにしてるよ。」 「緒方さんに行きつくまで、まだまだだよ。塔矢だっているしなぁ…」 緒方さんは前期の天元戦で、準決勝まで進んでいるのでシードになっている。 緒方さんと戦うには、三次予選を勝ち抜いて、本戦まで行かなければならない。 更に、本戦まで行くことができたとしても強敵は緒方さんだけじゃない。 本戦からは予選と違って、東京だけでなく関西中部の方で予選を勝ち抜いてきた者とも戦わなければならない。 しかし、本因坊リーグ入りした塔矢はもうすでにそういう世界で戦っているのだ。 自分も負けていられない。 「じゃあ、また…」 オレは軽く会釈をしてその場を去ろうとしたが 「進藤、今から時間あるか?」 緒方さんに引きとめられた。 「塔矢先生の家に行ったことは?」 「一度だけ、北斗杯前の合宿で。」 オレは緒方さんの赤いスポーツカーの助手席に乗りながら、そう答えた。 「なるほど。俺が前に研究会に誘った時は断ったからな。その時が初めてか。」 そういえば、前に緒方さんに研究会に誘われたことがあった。 あの時は、まだまだオレ自身に力が足りなかったし、何よりあの塔矢アキラと肩を並べてお勉強 というのが信じられない時期だった。 和谷たちも塔矢をライバル視していたし、それに感化された部分もあったのかもしれない。 それにしても。『今から、塔矢先生のお宅へ行くんだが、お前も来るか?』 さっき、緒方さんにそう誘われた時は断ろうかと思った。 なにより、塔矢先生に合うのが怖かったのだ。 saiについて聞かれても困るし、もうこの世にsaiはいないんだということを 先生に言わなければならないことが、何よりも辛い。 しかし、『先生が高永夏と戦った時の棋譜を見せてくれるそうだ』という一言で、オレの心は揺れ動いた。 高永夏には北斗杯で負けてしまった。あの時は秀作への意地でどうしても、勝ちたかった。 負けてしまったことが本当にくやしくてくやしくて、たまらなかった。 「オレも国際棋戦に参加する機会があるからな。 高永夏の碁はとても興味深い。塔矢先生相手にどこまで切り込んでいるのか。」 緒方先生がそうつぶやく。 オレも高永夏と塔矢先生との一局をぜひ、この目で見ておきたいと思う。 来年も北斗杯に出場するかもしれないのだ。今度は絶対に負けない。 塔矢の家には社と泊りにきたことがあるが、見事な純和風の日本家屋だ。東京の一等地にあるにも関わらず、庭も広い。 ガララと玄関の戸を緒方さんが明けた。 「こんばんは」 緒方さんが声をかけるとしばらくして、中年の女性が顔を出した。 かわいらしい感じの女性で、年齢を感じさせない。オレの母親よりも若い印象を受ける。 「あら緒方さん。こんばんは。いま、ちょうど始まった所よ。あら、そちらはー」 「プロ棋士の進藤です。」 緒方さんから紹介されて、オレは慌てて挨拶した。 「こ、こんばんは」 「一度お会いしたことがあるわね。確かあの時は主人のお見舞いに来てくださったのよね。」 「は、はい」 「あなたも主人の研究会に?アキラさんも喜ぶわ。」 さぁ、おあがりになってと塔矢のお母さんに勧められて、緒方さんに続いてあがらせてもらった。 研究会が行われている部屋へと通される。 「あ、緒方先生、遅かったじゃないですか。」 玄関での話声が聞こえたのだろうか。緒方さんが部屋の障子をあけた途端に芦原さんが、声をかけてきた。 部屋の中を見ると、部屋の中央に碁盤がおかれ、そのまわりを4,5人で囲っていた。 何人かは、手合いなどで見かけることも多いので顔は知っていたが 塔矢門下の棋士たちの顔ぶれをこうして、まじまじと見るのは初めてだった。 「あれぇ?進藤君?!」 オレに気付いたのか、芦原さんが素っ頓狂な声をあげた。 「え、だれだって!?」 部屋の中がざわざしはじめる。 「進藤!」 ちょうど、部屋の真ん中に座っていた塔矢とばっちり目が合った。驚いたような顔をしている。 そりゃ、そうだよな。突然だったし…。塔矢がいきなり、森下門下の研究会に来てもみんな驚くだろう。 最も森下先生は認めなさそうだけど…。 「棋院でばったり会ってな。進藤が一番、高永夏との棋譜を見たいだろうと思って連れてきたんだ。 先生、大丈夫ですか?」 緒方さんが塔矢先生の方に顔を向ける。 先生はオレが来たことに、たいして驚いていないようだった。 「断る理由など無いよ。進藤くん、ゆっくりしていきなさい。」 落ち着いた様子でそう言った。 「は、はい。よろしくおねがいします」 礼をしながら、オレはそうつぶやいた。 「進藤くん、今日、天元戦の二次予選決勝だったんだろ?結果は?」 「勝ちました。」 「じゃあ、三次予選でアキラとぶつかる可能性も出てくるわけだ。アキラ、今の気持ちは?」 芦原さんが面白そうに、塔矢の方を見やる。塔矢は黙ったままだったが、じっとオレの方をまっすぐに見てきた。 「芦原、お前、人のこと茶化す前に自分の成績を考えろよ。 お前は、天元戦、二次予選敗退だろ。」 塔矢門下の棋士にそうどつかれて、芦原さんは「はーい」と小さくなっていた。 塔矢先生と高永夏の一局はとても興味深いものだった。 序盤から中盤にかけてどっちも譲らずに、一進一退の攻防を続けていた。 しかし、やはり高永夏のヨミが甘かったのだろう。そこを塔矢先生に切り込まれていた。 だが、かの塔矢先生相手にここまで攻めかかるとは、高永夏の実力は並々ではない。 オレは北斗杯での高永夏との一局を思い出す。おそらく、力は互角だったのに半目足りずじまいだった。 どんなに形の悪い手でも平気で打ってくる。それは、自分に対する絶対の自信が成せる技だ。 あの時は負けてしまった。だが次に戦う時はオレも今のままではないのだ。 その後、研究会は塔矢先生が対局したと言う、中国棋院の棋士たちや台湾にいる棋士との対局の検討をして幕を閉じた。 塔矢先生の研究会は、森下先生の研究会とまた一味違って、おもしろかった。 緊張感があるし、実力者も多いのでヨミが的確である。また、塔矢先生の一手一手が興味深いのだ。 しかし、オレは緒方さんや芦原さんと話してばかりで塔矢と話すことはなかった。 塔矢先生ともあまり話さなかった。saiのことがある以上、先生と話すのは気まずいのだ。 研究会が終わり、みな、席を立ちあがり始める。 「さぁて、帰ろうっと。あ、アキラ、こないだ言ってたお店。」 芦原さんが、ふと塔矢にそう話しかけた。 「え?」 「ほら、コーヒーがおいしいお店だよ。あの喫茶店のチェーン点が棋院の近くにもできたみたいなんだ。 市河さんが教えてくれたんだぜ。今度、行こうぜ。」 「僕はあんまりあそこのコーヒー好きじゃないけどなぁ。」 「なんだよ、つきあえよー。」 「はいはい、わかったわかった。」 塔矢はあきれたような表情で笑いながらそう言った。 へぇ、アイツあんな顔するんだ。 塔矢の表情はいつも厳しい顔つきのイメージがある。碁会所でもあんな顔は見たことが無い。 塔矢のあんなやわらかい表情を見たのは初めてだ。 まるで、オレが和谷や伊角さんと冗談を言いあう時のような…そんな表情だ。 芦原さんと塔矢はずいぶん、仲が良いようだ。 おそらく、塔矢がまだ、小さい頃からの付き合いなのだろう。 ”アキラ”という名前で呼ばれていることからも、芦原さんには心を許しているみたいだ。 なんか、くやしいなぁ。自分でもなぜ、こんな感情を抱くのかはわからない。 だけど、塔矢が芦原さんだけに向ける笑顔を自分にも向けてほしい、そんなふうに思うのは何でなんだろう。 「あ、緒方さん。よかったら、車で送って行ってくださいよー 駅まででいいですから。」 「お前な、甘えるな。こないだも乗せていってやっただろ。」 「あ、アキラ、進藤くん、またね」 芦原さんと緒方さんが部屋から出て行ってしまったのでオレと塔矢、二人っきりになってしまった。 塔矢先生はとっくに部屋から出て行ってしまったようでいなかった。 オレも帰るよ、そう言いかけた途端に 「進藤くん。」 塔矢のお母さんが顔を出した。 「お時間があればですけど。よかったら、アキラさんと打ってくださらないかしら。」 「お母さん、何を?」 塔矢が慌てたように、母親の顔を見る。 「ほら、同い年の棋士が家に訪ねてくるなんて滅多に無いでしょう。 いい機会だもの、打ってもらいなさいよ。進藤くん、お忙しいの?」 明日は手合いも入っていないので一日、オフだ。 明子さんはオレと塔矢が、何度も碁会所で対戦していることを知らないようだった。 なるほど、大人の棋士たちとしか打ったり話したりしない息子を心配に思ったのだろう。 確かに、塔矢の家を訪ねてくる棋士はみんな塔矢よりも年上の棋士ばかりだ。 「もし、お時間が気になるのでしたら、泊ってらして。」つづく
aya 著 / 掲載サイト:【Moment】