「お願いします。」 二人で碁盤を囲んで礼をする。 この碁盤でよく佐為と打っていた。まさか、塔矢と打つ日がくるなんて思わなかったな。 勝負はオレの中押し勝ちとなった。 オレが塔矢に勝つことは、公式戦ではまだ無いが碁会所での対局では何回かあった。 だが中押しで勝ったのは初めてじゃないだろうか。だが、この一局。 オレが強くなったというよりは、塔矢が自分の力を出し切れていないようだ。いつもの勝負強さもなかった。 「ハハ、中押しで勝ったの初めてだぜ。くやしいだろ?」 オレがそう茶化したが、塔矢は何も言わない。 「お前、どうしたんだよ?俺のこと避けてたのに、急に対局に応じたり…。 何、考えてんのかわかんねーよ。」 オレの言葉に塔矢はしばらく黙っていたが「ぼ、僕だって」震えた声で、そう言った。 「君の考えていることがわからない。」 「塔矢…、オレ…」 オレは覚悟を決めた。 「オレ、なんか、よくわかんないんだけど…お前のこと、抱きしめたこと後悔してないんだ。」 「進藤?」塔矢は驚いたように、目を丸くする。 「これってさ、どういうことなんだか、オレにもわかんないんだよ」 オレは肩をすくめた。 「君にわからなければ、僕に分かる訳ないだろう!ふざけるな!」 塔矢はキッとオレを睨みつけた。 「僕がどれだけ驚いたか。君にわからないだろう。」 塔矢が肩を震わせる。 「塔矢…」 「もうこれ以上、君に振り回されたくない!」 「進藤、お前、あんまり騒いでると…」 玄関口で和谷の声が開こえる。どうやら、オレたちの声が聞こえたらしい。 「っ、え?塔矢?!」 部屋に入ってきた和谷が、驚いた声をあげる。塔矢はそのまま和谷の横をすり抜けて、部屋から出て行ってしまった。 「ごめん、邪魔した?」和谷が申し訳なさそうに、言った。 「いや。オレが悪いから…。」 「進藤?」 「ごめん、ちょっと一人になりたいんだ。」 「進藤…」 和谷が出て行ったあと、オレはごろんと横になった。塔矢…。泣きそうな顔をしていた。なぜ? これ以上、オレに振り回されたくないと言っていた。 オレ自身答えが見つからない。ぐるぐる、渦巻いている。あーもう、どうすりゃいいんだよ。 気が付けば、オレは眠ってしまったようだ。 『ヒカル!ヒカル』 聞き覚えのある声が聞こえてくる。誰だろう。 (塔矢?) 『ちがいますよ 私です』 オレが前を向くと、見覚えのある顔がそこにあった。 (佐為?!) 『やっと気付いてくれましたね』佐為は面白そうに笑った。 (お前、どうやって…あ、夢か。コレ。) 『ふふ ヒカル 強くなりましたね』 (お前、見てたのか?) 『見てますよ ずっと ヒカルの碁を ヒカルの一手はワクワクするような手ばかり』 久しぶりに見る佐為は、あの頃と何ひとつ変わっていなかった。ああ、なんか落ち着くなぁ。 『でもね、ヒカル 私の強さにばかりこだわって大切なことを見落としてますね』 佐為は目を細めてゆっくり、言った。 『ヒカルはヒカルの碁を打てばいいんですよ もちろん 私を吸収してくださっても構いませんけど ふふ』 (佐為…。でも、オレもっと強くなるよ。お前よりもずっと!) 『頑張ってください 塔矢くんもそれを待ってますよ』 (アイツが?) 『目を見ればわかります ヒカル いいですか 大切なことはねー』 佐為が何かを言っているのはわかった。だが、聞こえない。 (佐為、待てよ!佐為…) 気がついたときには、アパートの自分の部屋だった。とっくに朝になっていることに気付く。 夢か。また、夢で佐為に会えた。碁盤の隅においてあった扇子を手に取る。 「ありがとな。」 誰ともなしに、オレはそうつぶやいていた。 心ではどうすればいいか、わかっていた。 塔矢にもう一度、会って話す。それだけだった。まだ、自分の感情に整理がつかない。 だけど…ひとつだけ確かなことは、塔矢を失いたくない。それだけは確かだった。 しかし、なかなか勇気がもてない。塔矢はどう思うだろうか。 完全に嫌われてしまったら、どうしよう。そう思うと怖くてなかなか、一歩が踏み出せないのだ。 塔矢と気まずいまま、2カ月がたとうとしていた。 あいつの碁会所にも顔を出していないし、芹澤先生との研究会で会っても一言も話さない時期が続いていた。 そして、8月20日。オレは天元戦三次予選一回戦を迎えた。相手は九段のベテラン棋士だ。 これに勝った方が、決勝戦へと進める。 「お願いします。」 いよいよ、大事な一戦が始まった。 先番はオレだ。初手をどこに打つか、もう決めていた。右上スミ小目。 ここから、盤上を舞台に、どう切り込んでいくか。決められるのはオレ、ただ一人である。 向こうは、安定感のある碁をしたいと思っているようだ。それほど際どい手は打って来ない。 ならば、こちらから仕掛けてみてもよいかもしれない。 「進藤くん、勝ったのか?」 「えぇ、中押し勝ちです。見事な一局でしたよ。」 ざわざわと対局場が騒ぎ始める。ふー。オレは一息ついた。 「この一手。右辺を狙っているものばかりだと思っていた。 しかし、左辺・中央に切り込むための布石だったなんて。後で気づいても遅かった… 私の完敗だ。」 対戦相手だった吉岡先生は、感心したようにそうつぶやいた。 その言葉に、オレは心の中でそっとガッツポーズをした。自分でも納得のいく、いい対局ができた。 これで、三次予選決勝だ。ここまで、長い道のりだった。 「進藤くーん、おめでとう。これで、決勝進出だね。それに勝てば、いよいよ本戦だ。」 出版部の古瀬村さんだ。北斗杯以来、顔馴染みだった。 「本戦に行けば、倉田さんや芹澤先生たち、強豪と当たっていくわけだ。意気込みは?」 「誰が相手でも関係ない、オレはオレの碁をするだけだ」オレはボソッと小さい声でつぶやいた。 「え?」古瀬村さんが聞き返す。 「いえ、何でもないです。とにかく、頑張ります」 「おお、その調子。それで、上の強豪たちをぶった切っていけるといいね。 そういや、塔矢くんがさっき来てたな」 古瀬村さんが思いだしたようにつぶやく。「あれ、帰っちゃったのかな?」 「本当ですか?いつですか?」 オレが問い詰めると、古瀬村さんは首をかしげる。 「んー進藤くんの対局が始まってすぐかなぁ。ちょっと君の対局を見てたんだよな。 でも、今、いない所を見ると帰っちゃったのかな?」 そこへ、天野さんが顔をだした。 「塔矢君なら、中盤当たりで帰ったよ。『最後まで見てかないの?』って聞いたら 『進藤は勝つでしょう。』だってさ。」 「へぇ。さすが、ライバルだなぁ。わかってるんだ」古瀬村さんが関心したように頷いた。 帰りに棋院から駅までの道のりを歩いていると、ブッブーと車のクラクションが鳴った。 横断歩道を歩いていたわけでもないし、別に車の邪魔にもなってないよなぁ。何で、鳴らされたんだろう。 そう、思って横を見ると見覚えのある赤いスポーツカーが目に入る。これって、確か緒方さんの車だ。 「進藤くん」 窓が開いたと思ったら、予想に反して緒方さんではなく市河さんだった。 助手席に座っている。運転席には緒方さんだ。 「市河さん?!何で緒方さんの車に?」 「ちょっと、買い物に付き合ってもらったのよ。それより!」市河さんは、グイと乗り出す。 「最近、碁会所に顔を見せなくてどうしちゃったの?アキラくん、あなたが来なくて寂しそうなのよ。 そりゃ、私たちへの態度には出てないわよ。でも、何ていうか…」 「覇気が無い」ふと、緒方さんがつぶやく。「そう、言いたいんだろ?」 「そう、その通り。覇気が無いのよ。あなたがいないとつまんないみたい。 だから、来てあげてほしいの。アキラくんのために。」 本当にそうなのだろうか。 塔矢は、オレがいないとつまらないのか…? さっき、天野さんの言っていたことを反復する。 塔矢が見に来ていた。そして、オレの勝利を確信して帰って行った。 塔矢は、そこまで自分の腕を認めてくれているという事なのか。 ならば、それに応えたい。オレは強くそう思った。 もう、うだうだ考えるのはやめよう。自分らしくない。 塔矢は消えたりしない。 佐為のように幽霊な訳でも、オレだけが見えている訳でも無いのだから。 「市河さん、あのね。実はオレ、天元戦三次予選決勝まで行ったんだ。 多分、決勝の相手は――塔矢。アイツなんだ。」 「あら、そうなの?」 「だから、その対局が終わるまで碁会所には行かない。 もっと、強くなって、塔矢に勝つぐらい強くなって、それからアイツに会う。そう、決めたんだ。」 オレがキッパリ言うと「そう、わかったわ。ごめんなさいね。余計な茶々を入れて」市河さんはさみしそうにつぶやいた。 「宿命のライバルか―。」 「緒方さん?」 「君たちを見ていると、そう思うよ。お互いがお互いを引っ張り上げて、さらなる高みへと進んでいく。 オレはそれを上座で迎えうちたいな。」 クックッと緒方さんが笑いながらそう言った。 「碁打ちって、みんなプライドが高いわねぇ。 ま、進藤くんが頑張ってくれれば、アキラくんも頑張るしね。それでいいわ。じゃあ、またね。」 ブロロと車は音をたてて、進んでいった。 「ムッ…負けました」 角脇さんの一言で、対局が終了した。 「やはり、ここで読み間違えたか。いやはや、かなわないな。クソー」 「角脇さん。コイツ来週、天元戦三次予選決勝なんですよ。止めてくださいよ、進藤の連勝を。」 和谷が茶化すと、角脇さんは「うぅむ」と唸った。 「週刊碁で読んだよ。相手は塔矢でしょ。」 越智の言葉に、オレは頷いた。 今日は、土曜日。和谷の部屋での研究会だった。角脇さん、越智、伊角さんが参加していた。 「塔矢か、進藤か。勝った方が本戦か…進藤、塔矢を止められるといいな。」と伊角さんがつぶやいた。 塔矢と公式戦で当たるのは、三回目だった。碁会所などでは数えきれない程、打ったが、真剣な場面での 対局はまだ三回。 若獅子戦では敗れてしまった。だが、オレも数々の高段者との対局を経て強くなった。 自分でもわかる。負けてたまるか。 「そういえば、塔矢、本因坊リーグ戦から陥落らしいな。 まだまだトップの強豪には勝てなかった、そういうことか。」 角脇さんが碁石を片づけながら、そうつぶやいた。 「でも、来期も三次予選からでしょ。僕だって、三次予選まで勝ち進みたい。」 越智の言葉に皆は黙った。そう思っているのは、越智だけではない。 ここにいる誰だって思っていることだ。皆、塔矢の後を追っているのだ。 「頑張ろう。」 伊角さんが誰ともなしに、つぶやいた。つづく
aya 著 / 掲載サイト:【Moment】