「進藤、お前どこ行ってたんだよ。」 部屋に戻ると和谷にどやされた。 「ちょっと、ヤボ用。それより、対局はどうなってる?」 オレはノートパソコンを覗き込む。目で展開を追っていく。 負けているのは黒、塔矢だ。 「あれから、一回、塔矢に形勢が傾いたんだけどな。 結局、緒方さんにいいようにもってかれた。ここからじゃ、もう挽回は…」伊角さんが言った。 確かに、塔矢の地は、右辺も左辺もどれも、みな薄い。中央にまで、白の浸食を許してる。 まだ、攻められる手が無いわけではないが、攻撃を仕掛けるには不十分だ。 こんなに薄い状態で、無理に攻めれば形が悪くなる。 塔矢…。画面上の緒方さんの手が動いた。 余裕綽々だろうな、緒方さん。あとは地を減らされないように守ればいいだけだ。 だが、俺の思惑とは別の方向に、緒方さんは石を置いた。確かに、悪手ではない。 形勢が傾いている方の余裕の一手に見える。 いや、待てよ…もし、黒がそこにツケたら… 塔矢が逆転できるかもしれない。 「そろそろ、投了だろうか…。」門脇さんがそう、つぶやいた。 俺以外は、そのことに気づいていないようだった。 「…まだだ。」俺は思わず、そうつぶやいていた。 「まだ、黒は死んじゃいない。」 ひとつだけある、黒の活路。読み間違えれば、一貫の終わりだ。挽回は不可能になる。 けれど、黒の生きる道はある。今の緒方さんの一手で、流れが変わった。 しかし、塔矢の手は動かない。何やってんだよ。塔矢。 オレは必死に画面の向こうの塔矢に話しかけた。 突然、ブチッという音とともに画面が消えた。 「あ、あれ?」 門脇さんが必死にパソコンを動かすが、うんともすんとも言わなかった。 「バッテリー切れかもしれない。」 「え?!」 和谷たちは悲鳴に近い声をあげる。 「こんな時に、何で急に…!ええと、バッテリーはどこだったか…」 対局はどうなったんだろう。 「ごめん、ちょっとオレ…」言うよりも早く、オレは駆け出していた。 記者室に使われているホテルの部屋へと急ぐ。 ドアを開けると、棋士たち全員が画面に食い入るように見つめている。 オレも、混雑している中を押しのけて、画面を見に行った。 盤上の石はさっきのままだった。オレはとりあえず、ほっと一息をつく。 「もう、挽回は厳しいだろう。投了かな…」誰かがそう、つぶやく。 「まだだ。」オレはきっぱりと否定した。 「え?」 突然、オレが割り込んできたので棋士たちは驚いているようだった。だけど、黙っていられない。 まだ、終わっていない。終わってなんかない。 目の前にある、盤にオレは石を置いて行った。 「おいおい、ちょっと、何を勝手に…」 と周りの棋士たちが止めるのがわかったが、オレはそのまま置き続けた。 「ここで連絡せずに、あえて様子をみるんだ。そして、つないで、ここでオサえて止めれば…」 「あ!」 「確かに…。これで、白の地を削れる。逆転できる…?」 「小僧の言う通りじゃ。」 ハッと、顔をあげると桑原先生の姿があった。 「緒方君のミスじゃな。相当、追い詰められていたんじゃろう。 そのまま、素直にオサえれば良かったものを。逃げ腰になってしまったんじゃのう。」 桑原先生は、オレをまっすぐ見つめながら続けた。 「じゃがな、小僧。戦いの中で気づくには、難しい一手じゃ。 タイトル戦という追い詰められた舞台の中では、なおさら、な。」 そんな…挽回できる手があるのに。いつもの塔矢なら、絶対気づくことができるはずなのに。 塔矢…! ガチャッと荒々しくドアが開く音がして、棋士の一人が慌てて部屋に入ってきた。 「塔矢くんが、投了しましたっ」 オレは目の前が真っ白になった。 なんでだよ、塔矢。お前まで、雰囲気にのまれたっていうのかよ。 「進藤、お前ここにいたのかよ。」 探したんだぞ、と言いながら和谷が入ってきた。 対局が終わり、他の棋士たちがひとり、またひとりと席を立っていったが オレはずっと、この部屋から動けずにいた。 「塔矢、投了したらしいな。お前も、早く支度…」 和谷はそう言いかけて、オレの前に置かれた盤に目をやる。 しばらく、黙って盤を眺めていたが、和谷はハッと気づいたように叫んだ。 「なるほど、連絡せずにサガるのか。そして、こっちでツケてオサエる… 進藤、これ!」 「うん。まだ、終わってない。終わってなんかなかったのに…」 「見つけにくい一手だけど、塔矢、これに気づかなかったのか…。」 「オレさ、前に塔矢と対局した時に、こういう状況になったんだ。」 「え?」 オレが、唐突に話し出したので、和谷は驚いたようだった。 「こういう状況って?」 それでも聞いてくれる和谷が有難かった。誰かに、言いたくてたまらなかったからだ。 「オレの石が優位に運んで、もう挽回はできないだろうって思って得意気になってると アイツ、涼しい顔して打ち続けるんだ。そんで、一気に逆転される。 塔矢の碁はいつもそうだ。冷静でいて、力も強さも半端じゃない。それなのに…」 「それが、タイトル戦の怖さでしょ。」 気が付くと、越智が横に立っていた。 「いつもできることが、できなくなる。プレッシャーや追い詰められた状態で 自分の最大限の力を発揮するのはとても難しいってことだよ。 タイトル戦なんていったら、特にな。」 門脇さんもそう言いながら、部屋に入ってきた。伊角さんもそれに続く。 「しかし、進藤、その一手よく気づいたな。」という伊角さんの言葉に 「あの時、電源さえ切れなければ僕だって気づいたさ」と越智が噛みついた。 「全く充電し忘れるなんて、考えらんないよ。」フンと越智が鼻を鳴らす。 「だから、悪かったって謝ったじゃないか!」門脇さんが喚く。 「オレさ、前に森下先生に聞いたことがある。」 和谷が静かに言った。オレだけに聞かせたいようだった。 「タイトル戦の時だけは、空気が違うって。やっぱり、重みとか、いろいろあるんだろうな。 さしずめ、塔矢アキラも人間だったってことだよ。」 和谷の言葉に、思わずオレは笑ってしまった。 「人間…か。」 前に塔矢が言っていたことを思い出す。 (感情の無い人間がいる訳がないだろう。) 失礼なことを言ってしまった、とオレは反省した。 「オレ、ちょっと対局室行ってみるよ。」 そう言ってオレは、ひとりホテルのエレベーターに乗った。対局室に着くと、大勢の人でごった返していた。 パシャ、パシャとカメラのシャッター音が聞こえる。 今期の十段戦の保持者が決まったのだ。囲碁界のビックニュースになるだろう。 オレは、人をかき分けて、中へと入った。入口からのぞくと、塔矢の姿が目に入る。 少し疲れ切った表情で、記者や他の棋士たちと話していた。 しかし、碁盤を挟んだ向かい側の席は空席だった。緒方さんがいないようだ。 対局に負けた者が席を立つのはよくあることだが、勝利者が席を空けることは珍しい。 オレが不思議に思っていると、オレの隣にいた出版部の人の会話が耳にはいってきた。 「緒方先生、何で取材に応じてくれないんだろう。」 「さあ。対局が終わったと思ったら、何も言わずに外に出ちゃいましたからね。」 二人の記者は困惑した表情で、そう話していた。 「……なるほど、ここのツケはそういう狙いがあったんだね」 芹沢先生の声が、部屋の中から聞こえた。緒方さんはいないままだが、検討を始めることにしたらしい。 オレも検討に入れてもらおうと、中央の碁盤まで行き芹沢先生たちに挨拶をして、空いているところに座り込んだ。 何人かの棋士は、対局の最後まで記者室にいたので あの時、オレが緒方さんの妙手を指摘したことを知っていた。 「トップ棋士のうっかりした妙手か…。確かに、あの時何か違和感は感じたが…。 そんな瞬時に気づくことができなかった。」 芹沢先生の一言に、皆はその通りだというように頷いていた。 オレは急に恥ずかしくなってきた。 「い、いえ。オレも戦いの中だったら、気づけるかどうかわかりません。」 「いや、進藤くんのヨミの速さは私の研究会の中でもとびぬけている。」 芹沢先生に褒められ、オレはますます恥ずかしくなってしまった。 思わず、塔矢の顔を窺う。しかし、塔矢は無表情だった。表情から、何を思っているのかわからない。 「緒方先生、どこに行かれていたんですか?」 入口の方がやけに騒がしくなってきたと思ったら、緒方さんが戻ってきたようだった。 「十段、防衛した感想を教えてくださいよ。」 記者に詰め寄られ、緒方さんは疲れた声で応対していた。 その後、緒方さんは芹沢先生に検討に加わらないかと声をかけられたようだが丁重に断り、帰ってしまった。 対局者である緒方さん抜きに進めていても、あまり意味が無いので検討は打ち切られた。 塔矢は、来ていた棋士や出版部の記者たちにお礼を述べ、エレベーターまで見送りに行った。 そういう役目は、大体、戦いの勝利者が行う場合が多いのだが、緒方さんが帰ってしまったのだから仕方がない。 なんだか、緒方さんらしくないな。 さて、オレもそろそろ帰ろう、と対局室を出ようとしたときにちょうど、戻ってきた塔矢とハチ合わせた。 「進藤、これから時間あるか?良かったら、打たないか?」 そう、声をかけられオレは驚いてしまった。 昨日、今日、と立て続けに碁を打ち続けたのだ。疲れ切っているだろうに。 「ああ、オレは時間平気だけど。お前、疲れてないか?」 オレの質問に、塔矢は首を振った。 「このままで、終わらせたくないんだ。」 真剣な表情で、そう答えた。そこまで言われては、断る理由は無い。 「いいけど、どこで打つ?」 「僕の部屋で打とう。対局者は、明日まで部屋があてがわれるから。」 ああ、わかったとオレは頷いた。 塔矢の部屋は、11階にあった。部屋の大きめに作られた窓からは、東京の夜景が一望できる。 オレが昨日、見た夜景と同じくらい綺麗に見えた。 塔矢は部屋の隅の和室に碁盤と碁石を置いて、準備を始めていた。 「君が、緒方さんの続きを打ってくれないか。」 塔矢は盤上に、今日の対局の続きを並べていた。塔矢が投了する直前の一手までだ。 「ああ、わかった。お願いします。」 オレは塔矢の一手を待った。 もしも、塔矢がオレと同じことを考えていたなら…この緒方さんの妙手に食らいつくだろう。 これで白の分が悪くなる。そこで、白はもっと守ろうとする。 だが、そこで黒は連絡せずに様子を見る。そして、次につないでオサえる。 これで、完全に白をつぶしたことになる。これが、オレの見出した黒の生きる道だ。 だが、塔矢は黒にツケずにハネた。 「塔矢?」 オレは思わず、声を出した。オレの予想とは違う。しかし、塔矢は答えない。 何か、別の方向から白地を攻め立てることを考えていたようだ。 ようし、それならば、オレもお前の期待に応えるよ。 緒方さんのように打ってやる。 「お前の二目半勝ちだ。」 オレの言葉に、塔矢は複雑そうな顔をした。 やはり、あのまま続けていれば塔矢にチャンスがあったのだ。 「戦いの中では気づけなかった。だけど、緒方さんを追い詰めていたのは確かなんだ。」 塔矢の言葉にオレも頷いた。つづく
aya 著 / 掲載サイト:【Moment】